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さらら 風が吹いて  君の姿消えた


by nozaki-kaoru
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まだあげ初(そ)めし前髪の

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり
            『初恋』島崎藤村

・はい、最近ちょっと登校拒否になりそうですが、頑張って学校行きます。
今回もエッセー書きます。


「え」→ エストニア

「その背後に思想なくして真の音楽はない」と、ショパンが言ったように、すばらしい音楽には必ずその背景があるように思える。それゆえ音楽は哲学であるとも言える。
音を楽しむ、それは確かに音楽の極めてファンダメンタルな役割である。しかしそれは音楽のほんの一面でしかないと自分は思う。どのような思想が、またどのような感情が作曲者にその音を導いたのか。それを知ることが、音楽の重要な要素であると考えるのだ。それは、ただ受身的に消化するしかなかった音楽に、新しい息吹を吹き込む。そこで、人は始めて音楽と対峙する。思想のかたまりである過去の偉大な作品郡に、自分自身をぶつける。その瞬間に生まれた感情が、人生において血となり肉となる。
「音楽の背景を知る」。この行為を私は作曲者との対話であると考える。そして、偉人たちとの対話を通して、より新しい世界を開いていきたいと考える。

大学一年の時、所属していた合唱サークルで「蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩」という曲集を演奏会で歌った。その中で「さまよえるエストニア人」という曲があった。曲は2郡合唱で、とても歌いごたえがあるもので大きく感動したけれども、この曲の意味、さらにエストニアでなにが起こったのかは今になってもわからないでいた。
そして詩を書いた白石かずこと、曲を書いた三善晃がどのような気持ちでこの曲を書いたのか知りたいと心の奥で思っていた。
今回はこのエッセーの場を借りて、長年漠然と抱いていたエストニアの歴史とこの曲のことを調べて、自分の考えを書いていこうと思う。

最初に次のような状況を思い浮かべてほしい。
ある日身の回りの人が外国人に連れ去られる。家族も友達も、恋人もである。なぜ連れ去られたのか、それは「日本人」だからであるそうだ。私達日本人は近隣の大国から、劣っている民族だと考えられ、迫害され始めた。
しばらくすると住んでいた家を追い出された。長い間住み、家族との思い出が詰まっている家が敵国に奪われた。その後、住む場所を奪われ、様々な場所を逃げ歩いた。他国との争いはいつまでも続き、かつて身の回りにいた家族や友達、恋人とは離れ離れになったまま月日が過ぎていった。争いが終わり、平安が訪れたのは40年が経ったあとである。

これはエストニア人がつい数十年前まで実際に経験していた出来事である。
エストニアはバルト三国の一つの国である。この国は1989年のベルリンの壁崩壊まで、約40年の間、ソ連やナチスドイツによって支配されていた。この曲は、エストニアが植民地とされていた時代を背景にしている。主人公は詩人のヤン・カプリンスキーである。
1991年にようやく独立を勝ち取ったバルト三国の一つ、エストニアに住む詩人のヤン・カプリンスキーが主人公。彼は生後5ケ月で、ポーランド人で大学教授だった父をスターリン率いるソ連に強制連行されて失ってしまう。その後のナチスドイツ政権の際、広い庭園のある家を奪われ、シェルターをさ迷いながら父を捜し求めるようになる。この曲はそんな人生を歩んだヤン・カプリンスキーと作詞家の白石かずことの手紙のやり取りがもとになっているとされている。

この「さまよえるエストニア人」の詩は次の言葉で始まる。

『フライングダッチマンではない
さまよえるエストニア人に 昨日 逢った』

フライングダッチマンを翻訳すると「さまよえるオランダ人」になる。これはワーグナーの三幕のオペラでもある。これは神との約束を破ったため永久に港に入れなくなったオランダ人の船が喜望峰のあたりを漂流しているという船乗りの伝説が起源である。この伝説を白石かずこはヤンの境遇に当てはめ、彼を「さまよえるエストニア人」とした。

注意したいことは、このオランダ人は神との約束を破るという悪事を働いてしまい、その結果帰る場所を失う運命になってしまうが、エストニア人達は自分たちの素行に関係なく住む場所を奪われてしまったという点である。
なので白石かずこは、彼らと伝説上のオランダ人とをはっきりと区別したかった(後半は「フライングダッチマン」の意味合いが変わってくる)。その意思が表れているのがこの最初の一文であると思う。伝説上の童話のように、勧善懲悪だけが現実ではないと、強く訴えかけている。

そして次にこう続く

『手紙の中で ヤンよ 祖父の代は
広い庭園で帆を張り 天使たちが蜜蜂の歌をうたっていたのだってネ』

ヤン・カプリンスキーの歴史は、支配下にあったエストニアの歴史と平行している。よって彼は平穏な生活を知らなかった。彼にとって、戦争のない世界は天国のような理想郷に見えたのであろう。歌詞の「天使たちが蜜蜂の歌をうたっていた」という部分も、かつて平和だった時代を、楽園のように思い描いているように見える。それは経験したことのない、遠い昔のおとぎ話のようだったに違いない。では、エストニアはそれまでずっと平和であったのか。

『そのまた祖父の 祖父の 祖父の昔までは 知らない』

この「祖父の 祖父の 祖父の昔」はどうなっていたか。実はエストニアはヤンの時代と同様に植民地であった。エストニアは13世紀以来19世紀に入るまでデンマーク、ドイツ系騎士団、スウェーデン、ロシア帝国という様々な外国勢力によって支配されていたのだ。ヤン・カプリンスキーは、おそらくその辛い歴史を、教えられなかったのだろう。支配されていた時代のほうが、平和な時代より長い国。そんな重い歴史は、一時の輝かしい時代を強く美化してしまう。

そしてヤン・カプリンスキーは生き別れになった父(実際にはすぐに殺されている)を探すようになる。しかし父の証言は人によってバラバラで、どれだけ探してもわからない。
そしてヤンは、もし父がこの世によみがえってきても、決してこの悲劇を生んだ地にいないだろうと悟る。

そうして全てが終わったとき、父は傷だらけのまま天に召され、残ったのはかつて平和な時に住んでいた広い庭園だけだった。

『泣くんじゃない かつての祖父の庭の樹木たちよ
そこで歌っていたことりたち虫たち 幼い坊やよ』

「幼い坊や」とは幼少時代のヤン・カプリンスキー。そして庭で平穏に暮らしていた生き物たち。祖父と父を亡くした彼らに対して、白石かずこは「泣くんじゃない」と言う。

『手紙のなかで きみの樹木がふるえ
父なる人のポーランド語の詩が聞こえてくる』

白石かずこはヤンとの手紙のやり取りの中で、彼のなかに平和な時代の強い思いと、父の思い出が鮮明に残っていることを実感した。手紙の中の樹木は、枯れているのでなく「ふるえ」ており、父は死体としてではなくポーランド語を教える教授として心のなかで生きている。
そこでさらにこう続く

『帆をたたんじゃいけない』

家を失いおよそ40年間漂流し続けたヤンは、まさにさまよえるエストニア人である。そんな彼にとって帆をたたむことは、漂流の終点、平穏な時代への
帰還のように思える。しかしこの場合の「帆」は少し違う意味で使われているように思える。
帆は風を利用して船を進ませる船具である。つまり人間と自然との調和を象徴するもの。帆をたためば、人は自然との兼ね合いを忘れ、自分勝手な方向に進み続ける。それは戦争などの争いを引き起こす。
白石かずこは、エストニアが支配される前の平和な時代を、帆を張った船と表している。そこは天使や蜜蜂たちが自由に戯れることができる天国のような時代である。そしてその船はエストニア暗黒時代を経て、再びヤンたちの前に現れようとしている。
最期の一節

『今こそ あの船が庭を通り過ぎるのだ
祖父の代の 天使たち蜜蜂のうたっていた日の』

これから始まるかつての平穏な時代に、白石かずこはその自然と人間との調和、共存を象徴する「帆」を、決してたたんではいけないという。そして「帆」をたたむことによってかつての悲劇を繰り返すことをしてはいけないと強く謳っている。 <了>

次回は「お」→岡本太郎でーす♪
うーん、何書こうかな~
by nozaki-kaoru | 2007-06-19 15:26 | エッセー